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 第4章 お こ わ                          五期主計雲南始末記
 昭和18年1月10日、宵闇のなか、奇妙な出で立ちの一隊、腰にぎごちなく刀を吊り、白い包帯で丹
念に巻いた三八歩兵銃を肩に担い、靴音高く歩調を取って満州815部隊〔元満州国首都、現、藩陽
の経理学校〕を卒業して、部隊の営門を出ていった。見送る後発同級生の拍手の中、石川頑張れの声、
見返しても姿は確認できません。あの声は慶応大の同級生であり、親友の松村信二である。
かくて私、中島江、内貴泰三他3名の見習士官は釜山から乗船し、呉港に上陸して広島の石田見習士
官宅にお邪魔することになった。台湾行きの便船は2週間待たなければならないので私達は10日の
予定で銘々の自宅に帰ることになった。私は池袋千早町の自宅に帰り父と暮らせて楽しかった。
いよいよ、広島に帰る日が来た。父は東京駅に着くや、有楽町のプラットホームの外れに急行し、私
の列車を待った。列車は今や有楽町を通過しようとしている。私は窓を開けてプラットホームの外れ
を見る。父は両手を挙げて万歳を叫んでいた。これが父との今生の別れとなった。

 次いで我々は呉港を出港し、台湾の高雄港に入港したが広東行きは便船待ちとなった。皆は豊富な
食べ物を食べたり外食したりで結構便船待ちを楽しんでいたが、私は生憎、下痢で高野山の僧が施灸
しているのを聞きつけ、体の35ヶ所に施灸して貰った。
高雄で便船待ちしていたが、ようやく乗船でき、珠江を遡って広東着。電信第14連隊に復帰した。
中島と私は原隊である電信第14連隊に着くや、既に中国・雲南戦線にある第56師団経理部転属の
命が出ていた。雲南って何処にあるのか、どう行くのか分からない。軍司令部に問い合わせするが、
司令部も分からない。兎に角、飛行機でサイゴンまで行けという。
途中、海南島で休憩、暑くて飛行機の下に潜り込んだ。

 黄金色の稲田が斜めにくるくる回って居る。はや、サイゴンか、急ぎ軍装を解きトイレに駆け込む。
用を足し、トイレを出ようとするが、戸が開かない、乗員は降りている、些か慌て、乗員が降りてし
まうまで、開かないようになっていた。サイゴンはフランス人が作った街である。家は大きな樹木に
覆われ、大通りに面した飲食店は通りに机・椅子を持ち出し涼しげに飲食している。見習士官一行は
 coifuel の看板を見てお茶を飲もうと店に入って行くや、店の中から女性がきゃっという
声にはじき出されてきた。店はパーマ屋だった。見習士官殿は看板をcofeと勘違いした訳である。
第二語学がフランスだった私はニヤニヤ傍観していた。

 サイゴンから カンボジャのプノンペンに行き、そこから汽車でバンコクへ。
この機関車は薪をたいており、暑いので窓を開けていてシャツを穴だらけにしてしまった。
駅に停車中は要注意、釣針をつけた竹竿を窓から入れ、車中の物を釣り上げて逃走する。
時に、汽車がとんでもない所に止まったまま動かない。聞けば、運転手があの向こうの恋人の家に行
き、食事しているので何時動くか分からないと言う。

 バンコクは水路の都、時は将にピブン首相が唱える新生活運動の展開中で、女性は靴を手にぶら下
げ、裸足で歩いている。頭はパーマをかけ、中々のバックシャンであるが、前に回って見ないのが花。
映画館では映写を始める前に幼い国王の軍服姿の英姿が写され、総員起立して国歌を斉唱していた。
人力車に乗れば法外な運賃を吹きかける。文句を言おうものなら短刀を突きつけてくる。
ホテルのボーイ位が適任と見てきた安南人から見ればちよっと過激すぎて好きになれない。東南アジ
アの唯一の独立国だけに勝手が違う。

 バンコクからシンガポールまでヂイーゼルの国際列車で五日もかかった。薄べりを敷いた畳一畳の
コンパート車でゆっくり出来るが、実にのんびりしている。止まったまま、丸一日動かない、そうか
と思うと突然、動き出す。
駅で「お恐、お恐い」と言う。何が恐い。失礼。「おこわ、おこわ」と言う売り声がする。赤飯と鶏
の腿の照り焼きしたものをバナナの葉に包んであり、安く、旨い。一体、赤飯はここに昔からあった
ものか、日本兵が教えたものか分からない。「おこわ」という言い方が懐かしい。

        駅 売 り や
             ふ る さ と を 呼 ぶ
                      お こ わ か な


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