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 第3章 五 期 主 計                        五期主計雲南始末記  
 日中戦争の長期化と年々拡大する戦域に兵力の増強と、急速に増設される師団に補充する経理官の
養成に、養成校たる多摩にある陸軍経理学校の収容力に支障を来たし 昭和15年8月 新京陸軍経理
学校[815部隊]が開校・発足した。従来は部隊経理のみを重視したが、必勝の信念をもって戦う
経理官を目指した。私は5期生で2中隊[中隊長・益田正大尉]の5区隊[区隊長・辻野良雄中尉]
でした。益田中隊長は支那戦線で武勲を立てた金鶏勲章の受領者であったが、後に戦死した。辻野区
隊長は復員されたが、平成元年11月5日 77歳で病没された。氏の追悼記念誌には俳句と添え書きを
寄稿させて頂いた。

      アカシヤに

      815部隊の

      跡夢む
季節の花300

 新京経理学校は終戦まで、1期-10期 6000名の卒業生を出した。午前中は学科、午後は体操、剣
道、銃剣術、野外訓練。公主嶺の野戦は忘れられない。
学科で、[食糧]の山之内教官は「敵に糧を贈る勿れ」で講義を結んだ。このことは私の頭を離れな
い教訓でしたが、戦地では不可能に近く、しても真似事にすぎなかった。[戦術]の教官・益田大尉
は候補生に課題を出し、候補生の答えに「それでは駄目だ」とし、候補生が「それではこうします」
と答えると、「馬鹿者、戦術にやり直しはない」と怒鳴られた。
よくよく、考えて戦術を立て、一度、決めたことはやり抜かねばならないと私は思った。
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