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 第2章 南 方 派 遣 軍 入 隊                  五期主計雲南始末記
 私は、昭和16年12月8日 東京芝浦電気(株)の第7工場で真珠湾奇襲攻撃の大本営の発表を聞き、
襟を正した。先の6月、私は受けた徴兵検査で第一乙種合格となり、現役として南方派遣軍に入隊が
決まっていた。私は12月25日 の御用納めで休職となり、大森の下宿を引き払い、池袋3丁目の自宅
に帰り、父・政司、妹・昭子、弟・誠司と正月を迎えた得がたい15日でした。

 昭和17年1月9日 私は「勝って来るぞと勇ましく--」と歌い、日の丸の小旗を振る国防婦人会
の人々に送られて池袋駅に到着。私は見送りの礼を述べ、晴れがましさの照れ隠しに今次戦争は桃太
郎のように宝の持ち帰りは望めないと付け加えた。9日の晩は大阪・豊中の松村信二の家に泊まり、
一晩中、語り明かして、翌10日、大阪・天王寺の門を潜った。
門を入る時はソフト帽、背広にネクタイという地方の服装で、出る時は45キロの完全軍装でした。
バラバラの行進をして○○旅館に着く。翌朝は大変、握り飯を貰う、水筒に湯を詰める、不慣れな完
全軍装をする等、出発準備に大童。一番困るのは、整列時間を気にして、便所の前で待つことでした。

 さて、旅館を出て某所で完全軍装を解き、不動の姿勢、敬礼、銃の構え、脚絆巻き等の訓練をし、
夕方、朝出た旅館と違う旅館に入る。こんな生活が一週間続き、いつか、鎧戸を下ろした列車に滑り
込み、広島駅に到着。次いで、宇品港へ。あれよと言う間もなく、 100屯トラックと言われる小船に
押し込まれ、あわやと云う間に出航。兵員を船室に収容しきれず甲板に寝せねばならぬ小船。炊事施
設のない小船。食事は波を被った乾パンです。昼間は島影に、夜間は消灯して航行を続けること2ケ
月、広東に到着。胡弓の音を耳にし、巷間を行進し、七烈士陵がある近郊、旧女子中学校の赤煉瓦の
建物、電信第14連隊の兵営に入った。

 この日は3月10日、日本の陸軍記念日で敵の攻撃は恒例。夕方、部隊は市街に出動し、我々初年兵
は兵営守備に就く。私は丘の上に一人、立哨させられた。街ではドンパチやって居る。あたりの地理
も方角も分からない。交代を送ると云いながら、とうとう朝まで交代は来なかった。班長は忙しくて
私を忘れたのではないかしら。

 無線の、ハ-モニカの 、イトウの  と無線の打ち方を習ったが、私は苦手。大学出が分か
らないかと電線で額をピシャリ。そんな私でもダンケルク(1940年、ドイツ軍に敗れた英仏軍が劇的
撤退をした地)と来たら山勘で敗戦と答え、よろしい、褒美に外に出てよし、出たって一人ぽっちで
詰まらなかった。とんだ褒美だが、張ったりだが、どんなもんだい。一応は自負心を満足させた。
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