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 第5章 ジャラ ジャラン                       五期主計雲南始末記
 日本の京都みたいな落ち着いたクアラランプールを経て、シンガポールに着き、ビルマ・ラングー
ン行きの飛行便を待ったが、なかなか便が取れない。バンコクに戻り、泰緬国境越することも出来る
が、虎に襲われる危険がある由。日程も分からないし、食料の用意も出来ない、そんなところ歩く装
備もしていないので願い下げして便を待つことにした。
ちよっとした漁港だが、当時、唯一の歓楽境であった ペナン にも行って見た。寺内閣下も時々、
お忍びで来られるとか。ここは夜びいて賑やかだ。京劇を見たり、ベビーゴルフに興じたりもした。
大阪天王寺「南方派遣軍」に出頭〔昭和17年1月10日〕以来、1年4ケ月。新京経理学校卒業以来、
半年になるが、未だ先が見えなかった。

 現地の少年と知り合いになった。毎日のように「ジャラ ジャラン」しないかとやって来るのに救
われた。マレイ語で散歩することを「ジャラ ジャラン」と言う。いかにも、牧歌的な響きで、少年
が言うと余計に可愛い。チュウインガムを噛みながら、敬礼する英軍兵士の真似をしてみせ、又、口
をきつく結んで山下奉文閣下の真似をしても見せた。ある日、私を駅に連れて行き、バンコク行きの
ヂーゼル機関車を自慢たらしく見せ、日本にあるかと言う。私は神田の学生服商「山久」の宣伝カー
ドを取り出し、その裏に書いてある東京市内電車の地図を見せ、このとおり、網の目のように電車が
走っていて、金魚の糞のように次から次とつながって走っている。ここの汽車なんか一週間に一本し
か出ていないと言うと、目を大きく開いて驚いていた。是非、東京に行って見たいと言っていた。
世界で一番偉い国はタイ。二番はドイツ。次は日本と言っていた。彼の父は放送局に勤めるインテリ
家族だった。

 ようやく便が取れ、ラングーン〔ビルマ〕に到着した。途端に空襲にあう。この街は野犬と烏が多
い。一犬吠えれば万犬吠え、恰も、空襲警報のようで、一晩に何回も起こされた。
ビルマを北上、マンダレー、ラシオ、そして、填緬公路〔ラシオより〕に入り、昭和18年6月6日、
師団司令部のある亡市に到着。私は経理部主計科勤務、同行の中島江は 拉孟の砲兵連隊付 となり、
直ちに拉孟に向け発った。これが彼との永遠の別れとなった。
填緬公路はラシオから山間を縫って怒江を渡り昆明に達する千数百キロに及ぶ公路である。
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