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 第7章 の た う つ 竜   その1                五期主計雲南始末記
 竜兵団は雲南で、昭和19年の正月を和やかに迎えていたが、三月に入ると2ケ所で戦況が動き出し
た。一方は 英軍攻勢、ウィンゲ-ト率いる英空挺部隊がバーモーとミートキーナの間に降下し、次
第に勢力を増し、ミートキーナの背後を脅かさんとしている。

 他方は日本軍の攻勢で、3月15日 牟田口少将率いる第15軍が印緬国境を越えて印度領に雪崩れ込
んだインパール作戦が始まった。私は印緬国境のワインモーに3000屯の洞窟倉庫の建設命令を受けて
部下30名と共に出発し、バーモーまで行ったが、それ以遠は目下、地雷源除去中で待機せざるを得な
かった。バーモー糧秣交付所長の宮川中尉とは三度目の出会いでした。一回目は擬似コレラで椀町で、
二回目は籾収集のナンカンでした。バーモー滞在中は交付所でお世話になった。鯉・じゃが芋・トマ
トのごちゃ煮をご馳走になった。旨いので誉めたところ、三度、三度、給食されたのには閉口した。
結局、インパール作戦はインパールを指呼の間に見ながら力尽きてしまい、各隊がビルマに徹退した
時はその兵力の6割を失ってしまった。インパール作戦は行けばなんとかなると、補給準備そこそこ
に見切り発車したもので、行き着くことが出来なかった。

 軍需品を対空見地から低い河床に集積して一夜の大雨に押し流されてしまった。
牟田口閣下ご自慢のジンギスカンの故智にならった自ら歩く糧秣・羊の行軍はお目にかからなかった。
私は師団命令で羊の行軍教育に参加したが、成る程、輸送を要せず、自ら歩き、飼料は沿道の樹の芽
でよいが、部隊の行進速度と羊の歩みでは余りにも差があり過ぎる。なお、行軍を続ければ忽ち、蹄
を痛めて歩けなくなってしまう。自ら歩く糧秣は功を奏しなかった。ジンギスカンの故智ですって、
飛んでもない。ジンギスカンは飼いこそすれ、行軍はさせはしませんでした。

 私の任務はインパール陥落後の補給基地の建設であって、その要はなくなり、至急、帰還すること
になった。横転した自動車の黒と赤のタイヤチューブを持ち帰った。後日、私は碁石代わりに丸く切
り抜いて鉄兜の中網に入れて携行し、裏に碁盤の目を書いた外被を広げて碁を打ったが、後にバンコ
クで英軍に取り上げられてしまった。

 五月に入ると[のたうつ竜]の主戦場が風雲急を告げようとしてきた。昆明から米式装備した重慶
軍4万が恵通橋を修理して怒江を渡り、拉孟・竜陵・平戞の前面に展開し始めた。
一方、保山からも4万が恵人橋で怒江を渡り、瓦田へ、騰越へと迫って来た。
そんな時、私はバーモーから竜陵に帰ったところ、騰越より北方の冷水溝部隊救出のため野口強行輸
送隊に同行しての補給命令が出ていて、一泊して竜陵を発った。竜陵-騰越間の悪路に難渋した。
泥沼に足を取られた自動車を全員で引っ張る時間の方が乗っている時間より多かった。
騰越野戦倉庫で一泊し、翌日夕暮れに騰越を発ち、瓦田で小休止。出発した途端、道路右側の山上か
ら掃射を浴びる。窪地に身を隠し、噺き跳ねる馬の手綱を兵と一緒に抑える。馬の背に金き(金庫)
がない。敵襲の時、馬が跳ねて道路上に落としたものと思う。下士官と道路に戻り、発見。浩々たる
道路を匍匐し、金きを引きずり、窪地に戻り、目指す救出部隊の陣地下の部落に到着。食料・煙草を
塹壕に届けて、翌々日の夜、撤退を始めた。

 泥田に足を取られ、動きがとれなくなって放置されている日本馬が日本軍に決別の噺きをしている。
全くやりきれない思いで瓦田へ、騰越に辿り着いた。竜陵への帰還命令が出ていた。
一息ついて騰越を発った。経理部でこの命令を出す時、あの穏やかな渡辺経理部長[中佐]が石川を早
く戻せと言って周りを驚ろかした程の大慌てであったと聞く。碁敵の私が死んでは部長の腕前が経理
部で最下位となりましょう.そうなっては困るので私を死なすと大慌てしたのではないかしら。一寸
勘ぐり過ぎですな、失礼。
案の定、私が騰越を発って2時間後に竜陵への道は遮断された。竜陵に入れるか、街を見下ろせる丘
に立って見るに包囲されていないと分かり、どっと疲れが出てそこにへばってしまった。
私達は倉庫に入り、裏山陣地に就く。
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