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 第9章 あ と が き                        五期主計雲南始末記
 竜兵団は国境の町・椀町を脱出してビルマのラシオに集結した。
籾収集班石川分隊はラシオで経理勤務班石川隊に衣替えしてロイコーに向かう。
石川隊は今しも金色に輝くパゴダ[大伽藍]に見とれ、中に入る。靴を脱ぎ、跪座して、一拝、二拝、
三拝、僧侶に礼を述べて郊外に向かい、ニケ村に農園を開設した。便衣隊の出没しきり、私は長い日
本刀に代え現地刀をぶら下げ、馬でニケ村を巡るのが日課であった。ある日は今村班から、ある日は
禅院班からと順序を変えたり、両班に滞在時間の長短をつけ等、陰陽行動をしていた。げに、今村班
は農作業中に宿舎に置いた小銃、手榴弾を便衣隊に奪われた。日照りで活着に問題があったが、一度
活着するや、お化けの野菜が採れた。小船に野菜を満載して河を下って日本軍が転進して来る橋の袂
に船をつけ、交付しようとしたが、部隊は見向きもしなかった。これから10日も続くジャングルでは
食べる草もないというのに。

 石川分隊も農園を閉鎖して転進を続けていたところ、前方より「重大な命令があるから現在地に停
止して待つよう」との伝令があった。間もなく、詔勅が達せられた。
時に、8月25日 戦いは終わった。これからはケマピウーにある師団経理部に向かい急いで転進する
ことになる。
転進を続けている時、某所の小さい橋の橋桁から一人のインド人が出てきた。何と竜陵にいたゴルカ
兵ではないか。「隊長、日本に帰るネ、私、インドに帰る、元気ネ」語るに多くを要しない。彼は飛
んで去った。私達は彼が去った反対方向に転進した。

 経理勤務斑石川隊はケマピウー入り口の小高い丘に来て、未だ早いが、宿営することにした。
それッ、支那酒の甕を開けよ、飲めや、皆、よく飲み、そのまま大地に寝てしまった。目を覚ました
ら陽が高い。牛車を隠すのに大童になったが、隠す必要はないと気づいた。
戦争は終わって居る。敵機が偵察して去った。私は考えあってケマピウーに入らず、兵をして[石川
隊到着、ここで別命を待つ]と伝令させ、支那酒一甕を贈り届けさせた。

 さて、私はここで気の進まない処置をしなければならない。実は、竜陵から二人の中国小輩を連れ
ていた。もともと本人のたっての願いでここ迄、連れてきたが、事情を話して別れねばならない。
よくここまで来た、謝々。竜陵まで帰るのは大変、例え帰れても奸漢呼ばわりされて身が立つまい。
このビルマに根を生やすより仕方あるまい。私が持っている牛車、阿片、塩など全部与えるから、そ
れを持って村入りし、その折の挨拶代わりにし、又、土地買い入れに役立てるよう。後は言葉になら
ない。

 怒江下流のサルイン河を渡りタイに入った。メセニアという小さな町で武装解除を受け、竜陵で歯
こぼれした刀を出し、感無量。そのまま、その町で糧秣交付所の開設を命ぜられた。付近の住民から
食事に誘われたものの、断り続けていたが、これは蒋介石の日本軍がきたら歓待するようとの指令に
よるというので出かけて行き、大いに歓待された。蒋介石の指令がこんなところまで及んでいるとは
驚きである。国民総力戦で戦い、英米の援助を引き出し終に日本に勝った蒋介石、奢ることなく日本
軍を歓待せよという。

 翻って、張学良は父・張作霖が奉天に凱旋途中、奉天手前で日本の関東軍により列車ごと爆破死さ
せられた恨みを晴らさんと共産軍と戦う蒋介石を成都で捕らえ幽閉し、内戦を止めて対日戦に参加す
るよう強要し承諾させた。一先ず、命を保ち、対日戦に勝利し、中共に一目おかせ、中国を掌握する
筈だったのに、何故、蒋介石は台湾に退き中共が中国を掌握したのか。蒋介石をして勝たせた資本主
義国の  英米が共産政権を許容したのか。旧ソビエトのスターリンの影が散らつく。

 経理勤務班加賀隊が当交付所に宿泊することになった。私の寝台を加賀中尉に当て、私は兵隊のと
ころに行き寝た。深夜、布団を持って私のところにきて暴漢が4,5名入ってきて寝られないという。
石川少尉は寝ていて何事もないかという。実はあります。深夜、毎晩、頭側のベッドの手すりを大き
い白蛇が来て、こちらがジッとしていれば、ガサガサ音をたて去ってゆきます。後で知ったこことで
すが、あの時は、丁度、父の横死に符節します。その後、チェンマイに行った時、枕もとに小さな黒
い二匹の蛇が毎晩現れた。私は、巳年生まれで、何かの因縁でしょう。

 歩兵 146連隊・今岡連隊が当交付所前で行軍を止めて小休止に入った。私はお茶をもって行った。
「おうッ、君も無事だったか。もう、無茶するな」と言われた。私を覚えていたとは有難い。コレラ
騒ぎで椀町でのこと。今岡連隊は討伐に出ていて、帰還予告が留守隊にあり、私は留守隊と交付
所の兵を使って饅頭を作り、帰還兵が整列を終わり、解散となるや直ちに饅頭を配り労った。連隊長
は経理官の本領とお褒めに預かったが、経理部からは部隊付経理官のすることをするなとお叱りを受
けた。本業をおろそかにした訳でなく、余力を有用に使っただけである。同じ鰻頭でも、時と場所に
より価値が違いますぞ。座っている大官殿にはお分かりにならないでしょう。君  無事だったか
と言われた。君はでなく、君もはお互いに苦労・難儀したという共感がある。

 今岡連隊の出発である。連隊の象徴である連隊旗はなくとも[竜兵団の歩兵3ケ連隊とも連隊旗は
なくなっている]堂々の行進は見ている我々を勇気づけてくれた。
敗残の身と考えるな、胸を張って帰ろう、新生日本、万歳日本、涙が出てとまらない。
兵団最後の部隊を見送り、我々も交付所を閉じてチェンマイに向かう。

 チェンマイでは。毎晩、歌謡、演劇などが演じられていた。石川隊も私書き下ろしの[不在地主]
と菊池寛の[父帰る]を上演し、私は両者に出演した。実は、私も埼玉県の小さな不在地主でした。
さて、帰還乗船地はバンコクであるが、部隊が一挙にバンコクに殺到してはバンコクがパンクしてし
まう。部隊は帰還船がくるごとに二つの駐屯地を経由してバンコク入りすることになっている。
私は逐次、二つの駐屯地の糧秣交付所開設を命ぜられた。

 第一駐屯地でのこと。私の着任時、業者の指名切り替えがあった。指名を外された業者は不服とし、
今までの定量を10日間無料で届けてきた。さて、駐屯地を去るに当たっては人力車4台に満載した果
物を餞別として持って来た。日く「日本軍は又、来る」しかし、終戦後来たのは日本軍でなく物資で、
街では日貨排斥デモが盛んであった。

 第二駐屯地でのこと。正月には餅を食べさせたいと一計を案ず。倉庫よりの白砂糖1袋を黒砂糖4
袋に代え、うち1袋を倉庫に戻し、残りの3袋を糯米と搗賃に代えてチン餅が出来た。21年の正月万
歳。英軍に発覚すれば オー、カルカッターは覚悟の上、未だ見ぬ、カルカッタに行こうじゃないか。
しかし、私は物資の横流しではない。兵が欲する物との物々交換であると主張する積もりであった。
兵団最後の部隊が通過した。石川隊も交付所を閉じてバンコク入りした。
バンコクで石川隊の部下30名を経理部に返し、私は入院してアメーバ赤痢、右肩に受けた迫撃砲弾の
破片の除去、施灸あとの化膿を治療することになった。思い出すことが一杯あって一人でもちっとも
淋しくない。

 そのうち、英軍から査問の呼び出しがあった。復員船が近づいたことは嬉しいが、査問となると気
持ちがよくない。しかし、将校である以上、通らねばならない関門である。私は査問将校の前に立ち、
竜陵で印度兵捕虜60名を使って居た。職務上住民財産を徴発したと報告し終わると、英軍将校は立ち
上がり、「流石に日本軍も地に堕ちた。早く、家族のもとに帰りなさい」との立派な日本語に驚いた。
[流石に]と敬意を払い、[地に堕ちた]と同情を込めた英軍将校の対応に清々しい思いでした。
査問が日本の将校や、関東軍の将校だったら居丈高に、罪人扱いに査問したでしょうに。

 ようやく、病院船がやって来た。タバコ10本の他は全く着のみ着のままで乗船した。給養はタイの
抑留中から見て、ひどい落ち方で内地の食糧事情が感ぜられる。看護婦たちは甲板で大笑いして蒸か
し芋を食べている。船は今や、飛行機待ちしたシンガポールを横に見て通過。私の出生地であり、今
や、外国となっている台湾。対日戦に勝った蒋介石が国民党を率いて台湾に退き、台湾を統治してい
る。気の毒で仕方ない。私は祖父・仲司が台湾総督の謂で付けた 台司 を蒋介石に返上し、今日に
至っている。

 台湾沖を万感の思いで通過し、21年7月19日 浦賀に上陸。検疫も終わり、ゴールデンバット30本
を頂き、4年7ケ月ぷりに家に帰った。
途中、私は省線電車の破れガラスから、国破れて山河ありと眺め入っていた。「只今!、芋があるか」
が私の帰還第一声でした。
              いもや芋  あったぞあった  しめしめた

 座敷に上がって初めて、元上海特務機関長による父の横死を知った。押入れを開ければ当時の事件、
裁判を報道する新聞紙の山、見る気も、読む気もしない。折角、帰って来たのに、声もでない。


                   ● ● ●


 以上、4年7ケ月に亘り戦地での駈けずり回りを総括すれば 負けた、無駄になった、こき使われ
たということになるが、私は悔やみません。
人にない得がたい体験をし、それを思っては楽しみ、又、拙文ですが、書く楽しみも持った次第です。
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